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2009年5月23日土曜日

長崎原爆資料館

原爆投下までの、徹底フォーカスされた歴史的事実が
ここにあります。


1938年
 ドイツで核分裂が発見され、原子力爆弾として使用可能であることが示唆された。

1942年
 アメリカは当時の日本の国家予算をしのぐ、マンハッタン計画を発足させ(当時の20億ドル)、その巨費を投じ、原子力爆弾の開発に着手する。当時はドイツを標的とした開発であった。

1943年5月5日
 アメリカ軍事政策委員会政策会議において、原爆の投下地点を日本艦隊にすることが提案される。

1944年9月18日
 アメリカ、ニューヨーク州のハイドパークにおいて、チャーチル英首相とルーズベルト米大統領の対談が行なわれ、原爆の使用を、日本に対して行うことで意見が一致した。

1945年4月12日
 ルーズベルト米大統領が死去。その後副大統領だったトルーマンが大統領となる。

1945年4月22日
 アメリカ軍の第一回目の原爆目標検討委員会において、下記の都市が検討される。
 東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保

1945年5月10日
 第二回目の原爆目標検討委員会において、下記の都市に絞り込まれる。
 横浜、京都、広島、小倉

1945年5月28日
 第三回目の原爆目標検討委員会において、下記の都市に最終的に絞り込まれる。
 京都、広島、新潟

1945年5月31日
 原爆投下に関する「暫定委員会」において、原爆の投下を、事前警告を行わずに日本に投下することが決定された。

1945年7月17日
 科学者レオ・シラードが、米大統領宛に原爆の使用を阻止する要請書を送る。
 シラードに賛同する69名の科学者の署名も同封した。

 が、大統領の手に渡ったかどうかは不明。

1945年7月24日
 原爆の投下目標に、京都、広島、新潟の他に、長崎が加えられた。

1945年7月25日
 原爆投下指令をトルーマン米大統領が承認。

1945年8月2日
 原爆の投下は、広島を第一目標とし、8月6日の攻撃実行作戦命令が発せられた。

1945年8月6日1時45分
 原爆投下爆撃機「エノラゲイ」が、サイパンの隣の島、テニアンより出発。

1945年8月6日8時15分
 広島にウラン原爆を投下。

1945年8月7日
 ポツダム会談の中で、トルーマン米大統領が、広島への原爆投下について「何万人ものアメリカ青年の生命を救うため原爆を使用した」と述べる。

1945年8月8日
 グアム島陸軍第20般室隊の司令部が、原爆投下命令を交付。第一目標を「小倉」とした。第二目標は「長崎」。

1945年8月9日AM2時49分
 原爆を搭載した爆撃機が、小倉上空を3回旋回したが、焼夷弾の煙により目標地点が確認できず、原爆の投下を断念し、長崎を目指す。

1945年8月9日AM10時58分
 長崎上空も雲のため視界不良、その上燃料不足のため原爆投下を諦め、帰還を検討。

1945年8月9日AM11時02分
 一瞬の雲の切れ間に、長崎市街が現れた。長崎にプルトニウム原爆を投下。
合掌

2009年5月20日水曜日

知覧よ…


今から約2年前、鹿児島に日帰りの出張がありました。
無事仕事も終え、出張依頼のお取引先の担当者の方が、鹿児島空港まで車で送ってくださるということになり、その時の車中で交わした会話です。

「新井田さん、知覧って知ってますか?」
「チランですか?いや、知らないです。」
「戦時中、特攻隊の飛行場だったところです。」
「へ~、そうだったんですか…」
「資料館もありますので、また鹿児島に来る機会があれば、是非1度行ってみてください。先日、小泉首相が来て、号泣したそうですよ。」
「今から行けないですか?」
「もう夕方なんで…、資料館も5時までですし…」
「いずれ必ず行きたいと思います。」

そして、2009年5月5日、8時45分、私はある種約束をやっと果たしたような感慨を胸に、知覧特攻平和会館の前に立っていました。今回の行き当たりばったりの九州の放浪に、一つだけ絶対に外せなかった場所は、ここ知覧でした。

私は右派でも左派でもありませんし、常にニュートラルな立場で物事を考えようと勤めています。特攻隊に人一倍興味があるわけでもありません。ただ、小学生だった頃、1000名前後の若干20歳前後の青年が、劣勢の日本軍のため、連合艦隊に飛行機もろとも突撃したという歴史を知らされました。
当時の私にはあまりにも強烈な記憶となり、しばらくの間、飛行機を見るたびに特攻隊の事が脳裏をよぎっていた時期がありました。

知覧特攻平和会館には、復元されたゼロ戦が展示されていたり、特攻隊にまつわるいろいろな資料もあり、とても興味をそそられましたが、しばらく歩くと、特攻隊員全員の遺書が
ショーケース内に展示されていました。

その最初の遺書を読み始めて15秒後、私は、涙で文字が全く見えなくなり、目頭をどんなに強く押さえてもとめどなく涙があふれ、人目もあるので「泣くまい」とどんなに気を紛らわそうとしても、あまりの悲しさ、辛さ、やるせなさで、天を仰ぎ、両手で目を覆い、しばらく立ち尽くしてしまいました。
何度も押し寄せる慟哭で、声が出そうになるのを必死でこらえるのが精一杯でした。

写真は特攻前夜に宿泊するための「三角兵舎」です。
まさに、大きなうさぎ小屋のようなところでした。

下記に特に印象深かった遺書を記します。
(本当は原書を読んでいただければ、どれほど心を打たれることか…)

本当に心の優しい方だったことがしのばれます。
詩人の魂をひしひしと感じられる遺書です。
「残念」とはまさにこの事だと思います。
どれほど彼は「無念」だったことでしょう…。

最後に一つだけお伝えしたいことがあります。1036名の特攻隊員の中に、6名の韓国人と、4名の朝鮮人の方々が含まれていたことを…。





<出撃前夜>

色々有難うございました。
別に言うこともありません。
唯有難くうれしくあります。
最後の時まで決して御恩は忘れません。
月なみな事しか出て来ません。
姉妹の皆さん、
いよいよ本当にお別れ。
今でも例のごとくギャアギャア皆とさわいでいます。
哲学的な死生観も今の小生には書物の内容でしかありません。
国のため死ぬよろこびを痛切に感じています。
在世中お世話になった方々を一人一人思い出します。
時間がありません。
ただ心から有難うございました。
笑ってこれから床に入ります。
オヤスミ

<出撃当日>

あんまり緑が美しい
今日これから 
死にに行く事すら忘れてしまいそうだ。
真青な空
ぽかんと浮ぶ白い雲
6月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に

小鳥の声がたのしそう
「俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
本日十三時三十五分
いよいよ知ランを離陸する
なつかしの
祖国よ
さらば
使いなれた
万年筆を"かたみ"に
送ります。

大出博紹

昭和20年4月11日出撃戦死 大阪府出身 当時二十二歳 

合掌

2009年5月17日日曜日

九州放浪記


5月3~6日のGW期間中、土・日・祝日ETCであれば日本国中どこまで行っても、高速料金1000円(首都圏、近畿圏は除く)という恩恵をめいっぱい享受するため、T3のワーゲンキャンパーを駆り、九州各地を放浪してきました。

途中広島に寄り、原爆ドームを皮切りに、厳島神社、鹿児島の佐多岬、指宿、知覧、宮崎の高千穂神社、天の岩戸神社、国見ヶ丘、長崎の原爆資料館、出島、京都、というまさに強行スケジュールの行き当たりばったりの旅でしたが、今にして想えば本当に感慨深き旅でした。

特に印象深かった場所を、コメントを交えてブログにアップしていこうと思っています。